【平等】

<平等>とは、互いに対等で等しい立場であるということです。 言い換えるならば、相手と立場が入れ替わっても構わないという究極のスタンスのことであると言ってよいでしょう。


[例示]
例えば、二人で、一つの鯛焼きを分け合うとしましょう。 平等に分け合うためには、次のようにするとよいと知られます。

○ 一人が鯛焼きを半分に分割し、もう一人が好きな方を選んで自分のものにすること

このようにするならば、分割する方は出来る限りの工夫をして価値が同じになるように分ける努力をするであろうし、また選ぶ方の人はできるだけ利益が多い方を選ぼうとして目を凝らすことでしょう。 互いに嫌な思いをしたくなければ、1/2に分ける努力を怠るべきではないし、また選ぶ方も最良の選択を行う努力が必要です。 このように分け合うならば、互いの立場が逆でもよいと確信を以て言えることでしょう。 また、それぞれがどちらの立場を予め選択するにせよ、互いの立場は仮に決めたものに過ぎず、それの立場がそのままでも、あるいは逆になっても、どちらも不公平では無いと言い切れるに違いありません。 言うなれば、このようなやり方を平等と名づけ、その究極の「それ」が<平等>であると知られるのです。

ところで、平等を真に成り立たせるためには、両者がそれぞれの立場で持てる力を最大限発揮することが前提条件になるのだと言ってよいでしょう。 なぜならば、両者が互いに手抜きをしないで最善を尽くすことによってのみ、確固たる平等としての結論が出てくると言えるからです。 したがって、もしどちらかが(あるいは両者がそれぞれに)手抜きをするならば、見かけ上いかに精緻を尽くしたとしても、その結末はどこか不完全なもの、平等ならざるものに堕してしまうことでしょう。

なお、正しく確立された平等は、当事者にとっても、目撃者(ギャラリー)にとっても、その経緯と顛末を聞き及んだ同時代の人々にとっても、および未来の人々にとっても、すなわちそれを知ったすべての人々にとってのあり得べき模範事例となることでしょう。 そして、正しく確立された平等は、いかなる人々に評定されたとしても、最大級の評価を得ることになるでしょう。

このような平等の最大の利益は、「互いに争うことが無い」ということに尽きると言ってよいでしょう。 それは同時に、大いなる満足を生じ、大いなる安心(平安)の根拠となるのであると(知る人には)知られます。


[補足説明]
覚りの境地とは平等心を極めた境地であり、当然のことながら上記のような行為、条件、評価、利益を完全に備えています。 しかしながら、覚りの境地の実際は、上記で述べたような恣意的な行為、条件、満足および利益を含みつつもそれを遙かに超越した境地であり、想い計らうことなく得られる充足の行為であり、後悔の無い満足であり、究極の利益であり、不動のこころであり、この上ない安穏であると知られます。 つまり、覚りの境地はあらゆる(哲学的)見解の帰結では無いにもかかわらず、あらゆる(哲学的)見解を超えた結果を現出する不可思議な境地であると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
先に述べた鯛焼きを分ける話で説明すれば、ブッダはつねに分ける方の立場に立っています。 すなわち、ブッダの平等観とはこのように為されるべき行為の究極であり、この例で言えば鯛焼きはブッダによって完璧に二つに分割される結果が演出されます。 このため、選ぶ方は分割されたどちらを選んでも同じ結果を見ることになるのです。 つまり、ブッダは、相手(選択者)がどちらを選んでも同じ満足を得るように整えることが出来たということを以て、ブッダの行為としての究極の満足を得ています。 そして、実のところ、ブッダは因縁があってこのような立場で究極の満足を得る行為を為すことを常なる目的として(しかしそれを意識することなく)生きている存在であると知られます。 これを指して、たとえば法華経では、如来は「諸仏の誓願」に生きるのだと記しています。 ところで、同経典には「ブッダには食欲も嫉妬の心も無い」とありますが、これは鯛焼きを完璧に1/2に分割しようとする動機が、世間的な食欲や嫉妬の心から発したものでは無いということを言っています。 あるいはこのことは、究極の満足は食欲や嫉妬の心を動機として得られるものでは無いのであると言い換えても良いでしょう。 そして、それは、何でも(闇雲に)甘受するというような受動的なやり方ではなく、むしろ積極的に、主導的に関わり、自らの本心に従って行為することによって得られるものだと言えるのです。 すなわち、ブッダの境地は、我慢強い境地ではなく、そもそも我慢する必要がない境地であると知られます。