【錯覚】

錯覚は、何らの前提無しに無条件に顕れるものです。 ですから、それを理性的に回避することは出来ません。


[市松模様の錯覚図形]
下の図形は、すべて正方形で出来ています。 つまり、すべて水平線と垂直線だけで構成されており、曲線や斜めの線は含んでいません。 しかしながら、皆さんにはぐにゃぐにゃの線が見えることでしょう。 このように、何らの前提無しに無条件に顕れるものが錯覚の本質なのです。



もし、全世界の人々が上の図形が曲がって見えるということだけを根拠にして、上の図形が曲線あるいは斜めの線を含むということが真実だと見なされるのであるならば、次のようなことも同様に言えることでしょう。 しかし、それは間違っているのかも知れません。

◇ 全世界の人々がここにコップがあると言うのだから、ここにコップは確かに実在している。

◇ 全世界の人々が感動するというのだから、この感動は真実である。

◇ 全世界の人々が喜怒哀楽が無くなることはないと言うのだから、喜怒哀楽は人間の本質であり無くなることはない。 そして、全世界の人々がもしそれが無くなってしまうならば苦であろうと(推測して)言うのだから、喜怒哀楽が無くなることは苦である。

◇ 全世界の人々が覚りの境地など知らないと言うのだから、覚りの境地など存在しない。


[補足説明]
釈尊の原始仏典には、これを指して次のような記述があります。

○ 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、── それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。 またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。 (正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と反対である。 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。 解し難き真理を見よ。 無知なる人々は、ここに迷っている。(スッタニパータ)