【人々(衆生)】

この世は、すべてが顛倒した(=さかさまになった)世界であるのだと(知る人には)知られます。 未だ覚りの境地に至っていない人にとってにわかには信じられないことでしょうが、この世は本当にすべてが顛倒した世界であるのです。 そして、この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまうのであると言ってよいでしょう。 すなわち、人々(衆生)は好ましいものだと思って厭うべきものを選び取り、愛すべきものだと思って憎らしいものを選び取り、安楽に至る道だと思って自ら苦の道を選択しているのだと(知る人には)知られるからです。 人々は、出世間(後悔することのない究極の立場)から見ればまったく愚かな選択をしている訳ですが、人々(衆生)それぞれががそれぞれの局面においてそれをそのように選択したときには、それがまさしく最良の選択肢であると実感せざるを得なかったのであると言って差し支えありません。 それは、例えば錯覚のように錯誤することが(生来的に)避けられないものであり、したがって人々が(善かれと思って)誤った選択をしてしまうことは本当に無理からぬことだと言ってよいのです。

[衆生の姿]
衆生は、さしたる根拠も無いのに誰かれとなく毛嫌いします。 それだけにとどまらず、衆生は自分のことを本当に思いやってやさしくしてくれる人に対してさえ誤った嫌悪や恨みを抱いてしまう存在なのだと(知る人には)知られるのです。 その様は、例えば知らないうちに目に見えないような細かい棘が無数に刺さった人が、その痛みを和らげようと思ってやさしくさすってくれている人をその痛みゆえに誤解してなじるようなものです。 あるいは、背中に大火傷を負った人が、傷口に軟膏をやさしく塗って手当してくれている人を激痛ゆえに逆恨みするようなものなのです。 衆生は、相手の気持ちを正しく推し量ることができないだけでなく、自分自身の本当の姿を知ることができないゆえに、このような誤った態度をそうとは知らずにとってしまうのだと言ってよいでしょう。

また、衆生は自らに生じた苦を、苦を以て捨てようとさえします。 じっとしていればやがて治まるものを、闇雲に動いて苦を大きく深いものにしてしまいます。 あるいは、苦の原因を抜本的に取り除くことができずに一時的に気をそらすだけの行為でお茶を濁してしまい、知らぬ間に苦を増大させてしまうこともあるでしょう。 その悲惨な様子をそばで見ていて、思いやりをもってそのまちがいを指摘してくれる人がいたとしても、「そんなことは信じられない」とか、「そんな馬鹿な」とか、「それは不合理だ」とか、「他のどうでもよいことについてあるとかないとか」言って、苦から救ってくれる(可能性のある)人を自ら遠避けてしまいます。 悲惨なことであるけれども、衆生にはそのようにしか思えないゆえのことであると知られるのです。 その様は、例えば錯覚に陥っている人には直線が曲がって見え、あるいは同じ長さが違う長さに見え、または同じ色が違う色に見えるようなものであり、それと同様に、衆生の認識は無条件に顕れる錯覚に翻弄された状態にあって、自らの間違いを理性的に回避することは出来ないのだと言ってよいでしょう。

そしてまた、衆生に対して「まるで好むようになぜ苦を選択したのであるか?」と事後に問い正したとしても、その理由についてかれ自身が心ならずも虚言をはいてしまうことでしょう。 衆生は、(それを善かれと思って)苦を選択した自らの根底の衝動の真の理由を知らないからです。 それはたとえば、催眠誘導法によって後催眠効果の暗示を受けた被験者が、後催眠効果によって実行した自らの行動に勝手な理由を後付けする様子に似ています。 被験者は、自ら為した不合理な行動が催眠誘導の後催眠効果によって生じたものであるとは夢にも思わないからです。 衆生が、心ならずも起こす苦に向かって走る衝動の本質も、実はそのようなものであると言ってよいでしょう。 すなわち、衆生は、(実は自分ならざるものであると知られる)名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまうからです。 いずれの場合でも、勿論本人は大まじめであり、その真摯な態度は尊敬に値するものと言ってよいでしょうが、心ならずも苦に至る道を選択してしまうという結果自体はまったく愚かであるとしか言いようがありません。 そして、衆生はそれらのさまざまな結果として自ら後悔する事態に追い込まれてしまいます。 これが、衆生の真実の姿であり、苦の発生メカニズムに他なりません。 そして、先に述べたように、このことはこの世がすべてにおいて顛倒した世界であることから生じた根元的なことであるゆえに、衆生がそれを抜け出すことは容易ではありません。

こころある人は、これが人々(衆生)のありさまであるのだとこころに理解すべきです。