【見事に語られたこと】

もしも人が、何かのことについて相手の真意を知ろうと欲して種々の質問を投げかけ、相手にそのことについての見解をさまざまに述べさせることに成功したとしても、それによって相手の真意を知ることはできないことでしょう。

なぜならば、人は自らの真実を相手に名状することによってのみ、そのことについての相手の真意を知ることができるのであるからです。

さて、人がそのような意味も意義もある誠実な行為を、ことの始まりにおいても、中ほどにおいても、さらに終わりにおいても一貫して為し得たならば、かれはそれについて見事に語ったのだと(知る人に)知られます。

そして、そのように見事に語られたなかにおいて、語らいの相手がそのことについての真意を(明に、暗に)表明するにとどまらず、ふとそれを超えた真実の言葉を発したとき、まさにそのときに「それ(真如)」が見事に説かれたのだと知られるのです。

そのようにして「それ」が見事に説かれたとき、自分と相手とは互いに対等・平等であり、それゆえに互いに得難き友を得たのだと知ることになるでしょう。

もし人が、正しい道を歩む伴侶たるべき得難き友、学識ゆたかな善き友を得たいと欲するのであるならば、自ら見事に語り、そして見事に説かれた言葉を聞こうと熱望すべきです。


[補足説明]
ある人々が、互いに見事に語り、そして見事に説かれた言葉(=法の句)を世に出現せしめたとき、かれらには覚りに至る縁起が存したのだと知られます。 そして、その縁起のユニークさゆえに、その縁起にはかれらの名を冠した名称がつけられるのです。 その一例として、法華経−常不軽菩薩縁起を挙げることができるでしょう。