【それは覚りに至ると同時に分かること】

覚りの境地に至ったとき、そのプロセスをいかなる言葉を以てしても説明できないであろうということが同時に直観されます。 勿論、自らの経験を語ることはできるのですが、その経験は自分だけのユニークな体験にしか過ぎず、仮にそれと同じプロセスを誰かが経たとしても、必ずしも自分と同じように覚りの境地に至るとは言えないということがはっきりと分かるからです。

[赤色をどのようにして知ったか]
赤色がどの色であるかを知っている人は、その経験をまだ赤色がどの色か分かっていない人にそのまま伝授して、赤色が何であるかを分からせることができるでしょうか。 例えば安直に、自分が赤色を理解したときのその具体的な赤色をこの世で最高の特別な赤色であるとみなして、その赤色を示しさえすれば誰でも赤色が分かるようになると信じきれるでしょうか。 それは、恐らく無理でしょう。 それが無理なことは、誰よりも赤色を知ったその人自身が分かっているからです。 自分が赤色を理解したその具体的な赤色は、自分がその赤色によって赤色全体を理解するに至ったというユニークな経験の一材料に過ぎなかったことを、本人自身がはっきりと分かっているからです。 自分自身は、確かにその赤色によって赤色全体を理解したけれども、同じ赤色によって誰もが赤色全体を理解するとは限らないであろうことを、それと同時に理解するからです。 それどころか、無数にあるいろいろな赤色の一つに過ぎないその赤色で赤色全体を理解することができたのは、世界中で自分一人かも知れないことを理解するからです。 そして、すでに赤色を理解している人々は、恐らく全員が違う赤色を見て赤色全体を理解するに至ったに違いないことを、その人は理解するからです。 つまり、赤色全体を理解したその人は、その赤色が赤色全体を理解せしめるための良きサンプルでは無いかも知れないことをも、同時に理解するからです。 一方で、赤色全体を理解せしめるという一般的な目的において、純粋な赤色を用いる必要さえないことをも、その人は同時に理解するのです。 また、混じりけのある赤色、薄汚れた赤色、赤色とさえ言えないような赤みがかった色でさえも、他の誰かはそれによって赤色全体を理解する可能性があることを同時に理解するからです。 特定の赤色によって赤色全体を理解するに至るというプロセスが、普遍的なものではなく、本当はプロセスとさえ言えないものであることを赤色を理解した人はそのときに同時に理解するのです。

ここに至って、自分が見つけた赤色の具体的なサンプルは、本当に単なるサンプルに過ぎないことを、その人自身がはっきりと理解するのです。 自分が経験したことを、他の誰かに確実に伝授することなどは簡単に確約できることではないのだということを真に理解するのです。 その結果、その人は、一体どのようにして自分の経験を他の人に伝授すれば良いのか分からなくなってしまうのです。 沢山の中からそれを一つでも知れば、全部が分かるようになる。 この素晴らしい経験を、誰かに教え、伝授して、他の人もその全部が分かるようにしてあげたい。 その人は、そのように思うのですが、その具体的な方法が見あたらないことに気づくのです。 そして、赤色のことに限らず、何かを本当に理解するということは、そのことについてのみ深く理解するだけでなく、そのことに関連するあらゆることをも同時に深く理解するということなのです。

覚りの境地に至るという経験も、上記と同様です。 意地悪では無く、それを伝授するための確実な方法が本当に見あたらないのです。 それを誰かに伝えることが、どうしようもないほどに大変なことなのだと覚りの境地に至った人は誰よりも深く理解するからです。 その困難さは、赤色を理解してもらうということの比ではないからです。 なぜならば、覚りの境地に至った人は、その境地が通常の人々(衆生)のあらゆる知見と推量の範囲を超越したものであることをはっきりと知っているからです。 それは、勿体付けているのでもなく、神秘主義でもなく、覚りの境地とは本当にそのような超越した境地であることに由来することなのです。 その境地を、端的に説明する言葉が無いのです。 ただし、それを伝授する方法がまったく閉ざされていると言いたいのではありません。 その方法は、何らかの形できっと見つかるに違いないと思うからです。


[補足説明]
光における色の三原色は、赤、緑、青です。 すなわち、これらの三つの色を組み合わせることによってあらゆる色(自然色)が表現できるからです。 それを応用したのが、テレビジョンなどに使われているカラーブラウン管です。 ここで、注意して頂きたいことは、赤色は、無数の赤色だけを表現するのではなく、青と緑を除くすべての色を表現するポテンシャル(可能性の潜在的素因)をもっているということです。 赤色が表現できないのは、あらゆる強度の純粋な青と、あらゆる強度の純粋な緑だけです。 それ以外の色、例えば、黄色や紫や茶色などの無数の自然色を表現するためには、赤色は必要であるということです。 超越しているとは、このようなことなのです。 赤色が、赤色以外の多くの自然色を表現するための欠くべからざる色であるということ、そのことが赤色は赤色を超越しているということです。 覚りの境地が超越した境地であるということも、大雑把に言えばそれと同様のイメージです。 覚りの境地は、人間的な境地を基礎としていますが、通常の人間的な境地をかくの如く超越しているのです。 つまり、赤色でありながら、赤色を出て、例えば黄色(赤と緑によって出てくる色)となるのです。 この緑の役割を為すのが衆生であり、混ぜ合わさるということが因縁による作用です。 そのような意味で、覚りの境地は、通常の人間的な境地をも含み、それよりも遙かに広大な境地をも含んでいると言えるのです。 それは、赤色が赤色だけではないというようなことなのです。