【覚りのプロセス】

人が覚りに至るプロセスは、因縁によるものであって、世間的に言うところの学問、努力、誓戒、見解などによるものではありません。 なぜならば、覚りに至 るプロセスは、決まった道筋に従って順次進めていく性質のものでは無く、いわばそのときが来ればそのようになるという性質のものであるからです。(頓悟)  したがって、それを体系的に説明することは不可能です。 表題では敢えてプロセスという表現を用いましたが、プロセスという言い方は厳密に言えばふさわ しいものではありません。 このような事情から、覚りの境地に至る道筋を言葉で説明しようとすること自体が本来的に困難なことですが、以下ではその道筋を 譬喩の形で説明することを試みています。

最初に逆説的例示を行いますが、そこで例示したプロセスや修行方法がまったくの無駄なやり方であるということではありません。 しかしながら、それらの方 法自体およびそれらのいかなる発展形であっても、それを覚りに至る直接のプロセスとして位置づけることはできないのです。

次に、覚りに至る正攻法的プロセスの説明を行いますが、そこで述べたことも、それをそのまま実行しても何ら意味はありません。 なぜならば、それらは元々 覚りのプロセスと何ら関係無いことを、あくまでも覚りの境地に至ることについての譬喩として引用する形で述べたものに過ぎないからです(方便の説)。 し たがって、人がそれらをそのままに、あるいはそれらの様々な発展形を模索して実行したとしても、覚りに至るプロセスが見いだされることはあり得ません。

なぜ本項を設けたのか? その理由は、覚りのプロセスが(人が敢えて作為せざるところの)因縁によるということの真実について、せめてそれがどのようなものであるかの雰囲気なりを知らせることなのです。


[○○ではありません:逆説的例示]
■ 例えば、どこか行きたい場所があるとしたとき、実際にそこに行ったことがある人にそこに行き着くまでの道筋や目印を聞き、地図を描いてもらうことで しょう。 その地図を注意深く見ながら、そして聞き覚えた目印を確認しつつ目的地へと順次向かって行くならば、途中で間違えさえしない限り目的地に到達す ることでしょう。 しかしながら、覚りのプロセスはそのようなものではありません。 覚りの体現者が経験したことはあくまでも本人にのみ通用するユニーク な体験であって、人にそれをそのまま伝えても意味を為しませんし、何らの目印にもならないからです。 また、地図を描こうにも人々(衆生)の出発点は皆 違っていて、地図の起点を特定することができないのです。

■ 例えば、スポーツなどの技能を身につけたいと欲するとき、適当なスポーツジムに通い、コーチの指導を受けることでしょう。 そのように努力している中 に、きっと最初に考えていた技能を身につけるに至ることでしょう。 場合によっては、当初考えていた以上の技能を身につけることもあるでしょう。 しかし ながら、覚りのプロセスはそのようなものではありません。 覚りの境地には決まった形がある訳では無いために、それを誰かがコーチする訳にはいかないから です。

■ 例えば、書道を究めて書家になりたいと欲したとき、適切な先生について指導を仰ぐだけでなく、素晴らしい墨跡を沢山臨書することでしょう。 そのよう に努力している中に、良い字とは何かが自然と分かるようになり、自分でも独自の書法を編み出してついには書家になるであろうことが期待され得ます。  同 様に、覚れる人の動作や行為を真似することによって、それを吸収し、自分のものとすることができるのでしょうか? しかし、それは叶わないことです。 覚 りの境地は、覚れる人(ブッダ)の行為を真似することで得られるものではないからです。 それは、例えば子供がいかに大人の真似をしても、決してそれだけ によって大人になる訳では無いようなものです。 また、このような努力は、書道であれば書家になれずにただ癖字になってしまう恐れがあるように、そのルー チンが望みのところに辿り着くことを約束してくれる訳では無いからです。 悲惨なことですが、努力すればするほど癖字になってしまう人があるように、努力 すればするほど覚りの境地から遠ざかってしまう人もあるからです。

■ 例えば、健康を願う人が、毎日の食事の内容を細かく科学的に分析し、不足している栄養素が無いようにと気を配り、毎日の献立を注意深く計算して食事を とったとしても、それだけで健康が得られるとは限りません。 健康であるとは、何を食べても美味しく頂くことができ、毎日の献立は決して計画的なものでは 無いにも関わらず自然と得られるもの、それが健康であるからです。 健康とは、健康を意識せずに得られるべきものであるからです。 覚りの境地も同様で あって、覚りを得ようと計らって得られるものでは無いのです。 自分の行為に、ある部分が欠けていると知って、それを意識的に補おうとしても補うことは出 来ないのです。 それは、健康な生活と同様に期せずして達成されるものであるからです。(一大事因縁による) また、不摂生な生活をしている人が、必ずし も健康を損ねている訳ではないように、不誠実な生活をしている人は絶対に覚れないという訳でもありません。 そのような人であっても、その後覚りを正しく 熱望するならば、きっと覚りの境地に至るであろうからです。

■ 例えば、アレルギー体質の人が、自分の食事の中にアレルゲン(アレルギー物質)が絶対に入り込まないように配慮しようとするならば、普通の社会生活は 営めなくなってしまうことでしょう。 覚りを願う人が、覚りの邪魔になると思われる環境要因や社会的要因などを恣意的に排除し、煩いの無い生活を努力に よって演出しようとしても、それは覚りの境地とは違っています。 覚りの境地とは、健康な人が臆することなく何でも食べられるようなものであって、アレル ギー体質の人は自分自身の体質を改善しない限りそれを得ることは出来ないようなものです。 つまり、覚りの境地は(正法によって)到達すべきものであっ て、演出するものでは無いからです。


[○○の如きものです:譬喩としての例示]
● 覚りのプロセスを説明することは、知恵の輪を解き方を如何にして伝授すれば良いのかということに似ています。 つまり、もし知恵の輪の解き方を懇切丁 寧に順序よく教えてしまうならば、教えられた人はもう二度とその知恵の輪は解けなくなってしまうからです。 勿論、その場合でも物理的には知恵の輪は分離 されるでしょうが、独力で知恵の輪を解いたときに得られる筈の感動が根こそぎ無くなってしまうのは明らかです。 それと同様に、覚りの境地もそこに至るま での道筋を知識として詳細に教えてしまうならば、教えられた人は今生で覚りに至ることは無くなってしまうと考えられるのです。(一来となる) したがっ て、それはその人に対する最も冷たい行為であると言えるでしょう。 ところで、知恵の輪の場合、解き方をまったく説明しなくても、「この知恵の輪は本当に 解けるのだ」という結果だけを目の前に示すことで、その人は自力で解けるようになります。 不可思議ですが、「それが本当に解けるものなのだ」とその人が 心から納得した瞬間に、自力で解けてしまうのです。 そして、その人は知恵の輪が解けたという感動と達成感を心ゆくまで味わうことができるのです。 それ と同時に、誰かに解き方を教えてもらわなくて本当に良かったと思います。 知恵の輪の答えを知っていて、敢えてその答えを教えてくれなかった友達の行為 は、実はこの感動を自分にも味わって欲しいという好意であったことが今やはっきりと分かります。 ついさっきまで意地悪に見えた友達が、実はやさしい人で あったのだと分かります。 友達が、知恵の輪を解く過程を一切隠して「解ける!」という事実だけを示してくれたことに感謝します。 もしそうでなければ、 自分は知恵の輪を解くことによる本当の感動を味わうことはできなかったであろうことを理解するからです。 このような事実から、私は覚りのプロセスの説明 もこれと同様に行うべきであると思っています。 覚りの境地に至った人は、自分の境地の何たるかをくどくど説明するのではなく、覚りの境地を行為として示 すに留めることによって、むしろその目的をよく達成できるであろうと思うからです。 もしそれ以上のことをするならば、それは知恵の輪の答えを逐一教えて しまうような冷酷な行為だと思うからです。

[○○の如きものです(2)]
● 覚りの道とは、癖字を直してかつ書道家の芸術的な字が書けるようになることを目指すようなものです。 一旦癖字になった人は、まともな字を書けるよう になるだけでも大変なことですが、それをさらに書道家にまでしようと言うのです。 一体、どのように努力すれば本人はこの目的を達成できるのでしょうか。  一体、どのような指導や教示が先達にできるというのでしょうか。 先達が善かれと思って何を指摘したとしても、癖字になった人はその言葉を批判のための 批判(非難)だと受け止めてしまうことでしょう。 そのようにひねくれなくても、癖字をどのように直せば良いのか見当もつかないことでしょう。 書けば書 くほど、さらに癖字になってしまう気さえすることでしょう。 まして、どうやれば書道家になれると言うのでしょうか。 当人は、きっとそのように思い途方 に暮れてしまうことでしょう。 指導にあたる先達の書道家も、自分の字は自分だけのものであって、それをそのまま真似しても書道家になれないということは 自明のことであると考えるでしょう。 「とにかく臨書せよ!」と言うしかないのですが、臨書した結果が癖字なのか芸術的字に近いのかを癖字の当人自身は判 断できないのです。 したがって、癖字の当人は、最後まで自分の字に自信が持てないことでしょう。 この苦境を打開する道は、限られているでしょう。 そ れを一言で言うならば、当人が自分がいつかは書道家になれるのだと信じ切ることだと思います。 さらに一歩進んで、自分は書道家になるのだと決心すること だと思います。 そして、その決心は、根拠のない独りよがりなものであってはならないのです。 ブッダになろうと言う決心も、そのようにあるべきです。  (正しい観においての)絶望のただ中で、自ら証する確信をもってブッダになろうと決心すべきです。 (正しい観においての)無力感のただ中で、そのように 決心すべきです。 元々癖字だった人がついに書道家になったとき、自分が修業時代に書いたあまたの字がすべて下手くそな字だとはっきり理解するように、覚 りの境地に至った人は、それ以前にかかえていたあらゆる(哲学的)見解や、信仰の形、慈悲喜捨の行為などがすべて見当違いであったことを理解するのです。  しかし、そのようになったとき、その人は間違いなくブッダの境地に到達しているはずです。


[要約]
覚りの境地に至るプロセスを敢えて大胆に要約するならば、それは次の四つにまとめられます。

 正しく発心すること(発菩提心)
 気をつけること(精励)
 第二の気をつけること(観自在,熱望)
 最後の気をつけること(観照)

なお、「最後の気をつけること」は覚りの境地に至った後で行うべきことです。

また、覚りの境地に至るプロセスを一つの文章表現にまとめるならば、次のようになります。

● 人をして安穏の境地に至らせ、そこに安住せしめる不滅の法(ダルマ)の存在とその威力についての正しい信仰があり、その法を知って自らがブッダになろ うと決心する正しい発心を起こした人が、徳行において精励し、聡明であって、真実の教えを聞こうと熱望し、善知識が発する法の句を聞いてそれが正法そのも のであることに気づき理解し、諸仏の智慧を一つでも自らのものとするならば、ついに覚りの境地に至る。


[補足説明]
知恵の輪が本当に解ける、ということを示してくれるのは良き友達です。 それと同様に、覚りについてのきっかけを与えてくれるのは善知識です。 覚りの境 地を目指す人にとって、善知識は知恵の輪の答えをどうしても教えてくれない意地悪そうに見える(が実はやさしい)友達のような存在です。 善知識は、真実 のやさしさを心の奥に秘めながらも善知識自身もそれとは気づかずに、ただ相手(友)に対して最高のやさしさを無意識的に示し与えてくれる存在です。 その ような人(善知識)が現実にこの世にいて、自分のことを気遣っているのだと(気づきでは無くして)気づくならば、その人は覚りに至る道をすでに歩いている と言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
書道家が書いた字は、素人が書く字とはまったく次元が違っているのだと一目で分かるものです。 なぜならば、書道家の書いた字には、独特の感動を呼び起こ したり人をとりこにしたりする力があるからです。 その感動ゆえに、癖字では無い、また個性的なだけの字でも無い、芸術的な字というべきものがあるのだと 人は知り、そして書に啓蒙されるということが起こるのです。 ところで、書道についてそのような啓蒙を与えてくれるのは書道家ですが、覚りについての啓蒙 を与えてくれるのは他の人が見せてくれる発心です。 人は、他の人が起こす覚りに向かう発心や、他の人が起こすブッダに帰依しようとする発心を見て、つい に自らも発心を起こすに至るからです。 そして、この発心の終着点として、覚りの境地が確かにあるのだということをその人は最初から確信するのです。 す なわち、発心こそが、人が覚りの境地に至ることを確約してくれるものに他なりません。 そして、ある人が覚りの境地に至ったとき、「あれこそがすべての始 まりであった」と、その人自身が自らの発心を振り返ることは間違いありません。