【解脱】

解脱とは、煩悩苦(本能にもとづく心の動揺という苦)から脱れることを指す言葉である。 平易な表現をとるならば、解脱とはいろいろな形でこの身に現れるあらゆる種類の煩いからこころが永遠に解放されることに他ならない。 解脱は、この世の最上のことがらである。 なお、本節で言う”解脱”とは智慧の解脱のことを指している。

ところで、煩いとは何であろうか。 すでに解脱した覚者にとって、煩いには大きく二つの要因があることが知られるのである。 その一つは名称(nama)作用にもとづく煩いであり、もう一つは形態(rupa)作用にもとづく煩いである。

名称作用にもとづく煩いは、個人的要因(個人的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その原因を理性的に認識するなどして知的に克服できるかあるいは軽減することができる性質のものである。 一方、形態作用にもとづく煩いは、集合的要因(集合的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その本当の原因は特定することができず、それを知的に(意識的に,意思によって)克服することはできない性質のものである。

また、名称作用にもとづく煩いは、先ず対象の認知があってその後に恐れや嫌悪などの煩わしい感情が生起する性質を持っている。 一方、形態作用にもとづく煩いは、対象を認知すると同時に恐れや嫌悪などの煩わしい情動が待ったなしに認識される性質のものである。 すなわち、形態作用にもとづく煩いとは、やや強引に例えるならばいわば「錯覚」のようなものであり、それはあらゆる経験要素を排し、知識や見識とは関係なく、無条件に認識される根本的錯誤である。 このため、形態作用にもとづく煩いを、意思や哲学的見解などの解脱以外の方法によって克服することは不可能である。

さて、解脱したならば、上記で述べた二種類の煩いから脱れることができる。 なぜ煩いから脱れることができるのかというそのメカニズムそのものは説明できない。 ただ、具体的には次のようなことが体現されることになるのは本当である。

○ 事前の予想無しに突然起こった衝撃音や衝撃的映像に対して、まったく動揺しなくなる。 まるで、それが起こることを予め知っていたかのように、それどころかそれを予め知っていた以上に平静に、当たり前のようにそれらの現象を動揺無く受け止めている自分を発見することになる。(一切智) そして、このとき実際に何が起こったのかについて具体的に知りたくなった場合には、現象が起きた直後に対象物に意識を向けることでそれを正しく識別できる。(後得智)

○ 人間不信と自己嫌悪がともに無くなった自分自身を発見する。 世の中にいるすべての人々について、誰一人として嫌いな人がいないと実感され、人間関係についての煩いが消滅する。 つまり、如何様なる誰を見ても、その人に嫌うべき相を発見することができなくなるのである。

○ 目の前で何があろうとも、他の人に対して怒ること、争うこと、疑うことが無くなる。 世界中の人々が、家族や親族になったような気持ちに安住するのである。

○ いわゆる欲望の燃え盛ることが無くなる。 生理的欲求は残るが、それはいずれも一時的なものであり、特定の対象を執拗に繰り返し求めるような貪りとしての欲求(=欲望)が無くなった自分自身を発見するのである。

○ 迷妄と妄執がともに無くなる。 何に対しても、意識的にせよ無意識的にせよ、あれこれと勝手な想いをめぐらすことが無くなった自分自身を発見することになる。 世の中のあらゆる対象物や様々な現象は、一意の「相」として認識される。 具体的な例として人の表情について述べるならば、如何なる人においても喜怒哀楽の表情は見えずその人の人相のみが認識されるのである。 すなわち、相手が今現在どのような感情状態や情動状態にいるかを認識するのでは無く、相手がどのような境涯(境遇)にあるのかが認識されることになる。

このように、解脱は円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)をもたらすものである。 もろもろの如来は、その安らけく境地を知って、人々に解脱することを勧めるのである。