【名称と形態(nama-rupa:名色)】

名称と形態(nama-rupa:名色)とは、ユング心理学(分析心理学)に代表される深層心理学の言葉を(説明理論として)借りれば「個人的無意識」と 「集合的無意識」の作用のことだと言って大過ないでしょう。 このような言葉が出てくるのは、覚りの境地に至った人が分析的に人の心を大きく3つの階層に 分けて考えた結果です。 すなわち、人々(衆生)が自分自身だと思っている自我意識やペルソナの作用が表層意識としての自我(自我コンプレックス)であ り、その下層に位置する自我の他の可能性であるシャドウや抑圧されたコンプレックス人格などを含む個人的無意識にあたるのが「名称(nama)」です。  さらに、それらの下の層に位置して元型(アーキタイプ)群およびグレートマザーという形で人類全体を貫いて共通に存在する集合的無意識にあたるのが「形態 (rupa)」です。

これらについて、原始仏典の別の表現(テーリーガーター:尼僧の告白)では名称を「刀」、形態を「串」のようだと形容しています。 確かに、名称作用は自 我を脅かしてこころを動揺させる刀のようなものであり、ユング心理学に言うシャドウやコンプレックス人格が自我に及ぼす作用そのままです。 一方、形態作 用は人類の歴史的経験のエッセンスというべきものであって、そのように凝縮されたイメージの潜在形成力が全人類を貫くように投影されていて、個々人が有す る縁に応じて適宜各自の自我意識に深い影響を与える集合的こころ(として認知される心的作用)のことですから、串という形容は実にまとを得ています。

なお、名称と形態を現代の言葉で平易に表現するならば、次のように言ってよいでしょう。

 名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用
 形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・増幅作用(心的アレルギー作用)

ここで、心的余韻作用とは、肯定的には例えば思い出の味やなつかしい心地よさなどとして現れる認識ですが、否定的には嫌な思い出にもとづく不快な感情や嫌 悪、トラウマによる自己制御の困難などとして現れます。 一方、心的変換・増幅作用とは、肯定的には例えば極微量の出し汁の作用による味噌汁の旨みの認識 や芸術的映画や音楽を鑑賞したときに生じる胸震わせる感動などとして現れるこころ細やかな快の認識ですが、否定的には理由もなくわきあがる怒りや恐怖、焦 燥感などのいわば心的アレルギー作用として現れます。

やや強引に譬えるならば、心的余韻作用とは幻の如きものであり、心的変換・増幅作用とは錯覚の如きものであると言ってよいでしょう。 そして、この名称と 形態(nama-rupa)こそが、我ありという認識の根元(=我執)を為しているものなのですが、これらは実は自性ならざるものであると知られるので す。

名称と形態(nama-rupa)を、こころを覆う障害としてとらえた般若心経では、それらをケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と呼び、ケイが引っ掛かり、ゲ がさまたげるものであるとしています。 不快な心的余韻作用は、対象に関するまさに「心の引っ掛かり」であるし、心的アレルギー作用は目前の行動に対して まさにこころをさまたげるもの(心奥の障害)と言えるでしょう。 それは、たとえば特定の食べ物アレルギーのある人が、目の前に出された食事の中にアレル ゲン(その人におけるアレルギーの原因物質)が含まれているのではないかと疑い、食べる前から恐れおののくようなものです。 アレルゲンが含まれているか どうかは実際に食べてみなければ分からないことであるし、食べてアレルギー症状が現れたときには時すでに遅く、アレルギーの苦しみを生じることがもう避け られません。 このため、アレルギー体質の人は、目の前に出された食事を、何も考えずに摂ることが出来なくなってしまうことでしょう。 あたりまえのこと が、あたりまえに出来なく無くなってしまうことでしょう。 これが、こころのさまたげです。 それと同様に、人々(衆生)にはケイ(網頭らに圭)・ゲ (礙)と名付くべき心的障害がつねにつきまとっているのであり、そのために素直なこころ(=真如) を働かせることが出来なくなっているのだと考えなければなりません。 そして、それゆえに人々(衆生)は、あたりまえのこころをあたりまえに表出できなく なっており、しかも自分自身ではそのことに気づいてさえいないのです。 この知り難きこころの障害の根元こそが、名称と形態(nama-rupa:名色) に他なりません。

ところで、名称と形態(nama-rupa)を滅尽することが即ち解脱であり、その結果顕れるのが覚りの境地(=ニルヴァーナ)です。 このため、人は解 脱するとその瞬間からまったく内外界の影響を受けない禅定の境地に入ることになります。 なぜならば、それまで名称と形態(nama-rupa)にもとづ いて起こっていた外界および内界との関わりによる「心的余韻作用」と「心的変換・増幅作用」が根こそぎ消滅するからです。 すなわち、(本当の)禅定と は、一旦揺れ動いたこころが元どおりに復帰する過程では無く、一切に関して何が起ころうとも最初からまったく動じない境地を指して言う言葉です。

なお、釈尊の原始経典の一節では、名称と形態(nama-rupa)によって生じるそれぞれの心的作用が表象作用と感受作用であると認め、解脱の境地を次のように記しています。

○ 身体を壊り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。(ウダーナヴァルガ)


[補足説明]
唯識でいう「末那識(まなしき)」は名称(nama)作用を呼び起こす根元であり、「阿頼耶識(あらやしき)」は形態(rupa)作用を呼び起こす根元で あると考えてよいでしょう。 これらの二つの識を超えた真実の識として、唯識では「阿摩羅識(あまらしき)」を立て、それに至り住することが解脱であると しています。

[補足説明(2)]
いわゆる煩悩の正体を指して「客塵」と言うのは、集合的無意識宛に他の人々から日々送られてくる人類共通の業(カルマ)の様子を示しています。 このどこ からともなくやって来て塵のように降り積もる業が、人類共通の精神的遺産として受け継がれたものの総体が、すなわち形態(rupa)であるからです。