【周利槃特(チューラ・パンタカ)の覚り】

覚りに至るためには、果たして書物や人づてなどで見聞きした知識や見識、あるいは分別、様々な人生経験などが必要なのでしょうか? 私は、それらは別に必要ないと考えます。

[チューラ・パンタカ(周利槃特)の覚りの話]
チューラ・パンタカは、物覚えの悪い人で、釈尊から教えてもらった覚りに役立つ詩をただ一つさえなかなか覚えきれず、詩の2行目を覚えた頃には最初の一行 を忘れていたというほどであったと伝えられています。 しかしながら、チューラ・パンタカは釈尊から勧められて始めた「草履拭き」の作務をこなしていく中 で、見事に覚りに至ったということです。

[チューラ・パンタカは何を覚ったのか]
チューラ・パンタカの覚りは、釈尊の覚り、すなわちブッダとしての覚りと基本的には同じものであったろうと私は思います。 すなわち、それはニルヴァーナ の顕現であり、四苦八苦の滅尽であった筈です。 すなわち、人々(衆生)は釈尊から得たものと同じものをチューラ・パンタカからも得、釈尊が衆生から手に 入れたものと同じものをチューラ・パンタカも同様に手に入れたであろうと考えられます。

** 推測 **
チューラ・パンタカの覚りの経緯についての詳細は割愛しますが、要するに短い文章をも記憶することができないようないわば知能の薄い人々でも、慈悲喜捨のこころがあれば覚りを開くことができるという話です。 以下は、その顛末を私が推測したものです。

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* 途中までの話は一気に割愛 *

釈尊) チューラ・パンタカよ。 そなたはこの布を使って、人々の履き物を磨くことを作務とするが良い。
チューラ・パンタカ) わ・か・り・ま・し・た

チューラ・パンタカは、その日から釈尊に来訪者があるとそれらの人々の履き物を誠意をもって磨く毎日であった。

チューラ・パンタカ) ふ・し・ぎ・だ。 このぬのは、はきもののよごれをただくっつけるだ。 そ・し・て.. このぬのはあらえばまたきれいになるだ。

 そのような日々が続いたある日..

来訪者) 釈尊よ。 私は、このことについて質問があるのです。 是非、教えを頂きたいのです。

 来訪者は、何かにとりつかれたように、釈尊に法を質問する。 釈尊は、これに応える。

釈尊) ....と私は説くのである。
来訪者) ありがとうございます。 あなたは、倒れる者を起こすように.... 

 来訪者は、釈尊の教えを受けて、安心し、穏やかになり、満面の笑みでその場を退席する。

来訪者) 私の履き物はどこへ? あった。 おお。 綺麗に磨いてある。 これは一体?  

 その横で、チューラ・パンタカが他の人々の履き物を一心に磨いている。

来訪者) チューラ・パンタカさん。 あなたが、私の履き物も磨いてくれたのですか?
チューラ・パンタカ) は・い。   そ・う・で・す・だ。

来訪者) ありがとう チューラ・パンタカさん。 {来訪者は満面の笑み}
チューラ・パンタカ) い・い・え。 ど・う・い・た・し・ま・し・て。 {パンタカも満面の笑み}

チューラ・パンタカ) こ・の・ひ・と・も.. ほかのひとたちとおなじように、くるときはすごいかおでやってきたけれど。 かえるときには え・が・おだっただ。  おしゃかさまはすげえだ。 おらも、おしゃかさまのようになりてえだ。

 そのような日々がさらに続いたある日

来訪者) 釈尊よ。 私は、このことについて質問があるのです。 是非、教えを頂きたいのです。

 来訪者は、何かにとりつかれたように、釈尊に法を質問する。 釈尊は、これに応える。

釈尊) ....と私は説くのである。
来訪者) ありがとうございます。 あなたは、倒れる者を起こすように.... 

 来訪者は、釈尊の教えを受けて、安心し、穏やかになり、満面の笑みでその場を退席する。

来訪者) 私の履き物はどこへ? ああ、あった。 おおっ。 綺麗に磨いてある。 これは一体?  

 この日も、その横でチューラ・パンタカが他の人々の履き物を一心に磨いている。

来訪者) チューラ・パンタカさん。 あなたが、私の履き物も磨いてくれたのですか?
チューラ・パンタカ) は・い。   そ・う・で・す・だ。

来訪者) ありがとう チューラ・パンタカさん。 {来訪者は満面の笑み}
チューラ・パンタカ) い・い・え。 ど・う・い・た・し・ま・し・て。 {パンタカも満面の笑み}

チューラ・パンタカ) きょうのこのひとも... ほかのひとたちとおなじように、くるときはすごくくるしいかおできたけれど。 かえるときには え・が・おだっただ。 おしゃかさまは、やっぱりすげえだ。 おらも、おしゃかさまのようになりてえだ。

チューラ・パンタカ) おらは。 どうなりてえだ? おしゃかさまのようになりてえだ? で・も..。 おらは、あたまがわるいだ。 だったら、おらは?  おらはどうするだ? なにができるだ? いや、おらはどうなりてえだ? そ・う・だ..。 おらは、おしゃかさまのように、ひとびとにえがおをあげてえ だ。 そして おらも、みんなのえがおがほしいだ。

チューラ・パンタカ) だども。 それだったら... それだったら、おらはいつもみんなからえがおをもらってるだ。 そうだ おらは、ほしいものをもうもらっているだ。 だったら、おらはこれでええだ。 みんなから、えがおをもらえればそれでええだ。

この瞬間に、チューラ・パンタカは覚りを開いたに違いありません。


チューラ・パンタカが気づいたことは、次のようなことであったろうと思います。

 布は不思議だ。 布は履き物の汚れを一方的に吸い取るように見える。 そして、布は汚れても洗えばまた綺麗になって、また履き物を磨ける。 一方、お釈 迦様も、人々(衆生)の疑問や悪や汚れに常に晒されていてその汚れを一方的に吸い取るように見えるけれども、釈尊は汚されることなくいつも(心は)綺麗で ある。 そして、飽きることなく法を説かれる。 つまり、それは布に似ている。

 釈尊への来訪者は、来るときには苦の状態であるが、理法を聞いて帰るときには満面の笑顔で帰っていく。 ところで、自分(チューラ・パンタカ)に対して も、人々はいつでも,誰でも満面の笑顔をくれる。 〔やあ、この前は有り難う。 履き物が綺麗で気持ちよかったよ と〕 このように、最初は履き物を磨い てくれたお礼に笑顔をくれたけれど、今では道ですれ違っただけでも自分に対して無条件に笑顔をくれる。  だったら、自分も釈尊も同じことをしているでは ないか と。 自分は、最もほしかったものをすでに手に入れているではないか と。

[補足説明]
チューラ・パンタカの話が、ただこれだけのことであるならば、それはある種の哲学的見解に過ぎないでしょう。 しかし、実際には、恐らくチューラ・パンタ カはその瞬間にニルヴァーナの境地に至ったに違いありません。 その瞬間に、貪嗔痴が滅尽したに違いありません。 その瞬間に、まどかなる安穏を手に入れ たに違いありません。

[補足説明(2)]
釈尊とチューラ・パンタカ、二人に共通しているのは「誰に対してもやさしい」と言うことであり、「誰とも敵対していない」と言うことです。 それを心的に行為しているのが釈尊であり、物理的に行為しているのがチューラ・パンタカであると言えるでしょう。