【尊敬されるべき人】

尊敬されるべき人とは、智慧ある人のことを言います。 すなわち、覚りの境地に至った人あるいは善知識である人のことです。 では、何故これらの人々は尊敬されるべき人と呼ばれるのでしょうか。

これらの人々は、図らずも慈悲喜捨を体現している人であるがゆえに「尊敬されるべき人」と呼ばれます。 これらの人々は、真実にやさしい人であるがゆえに、誰からも「尊敬されるべき人」と呼ばれることになります。 これらの人々は、本人がどのように思っていようが実は苦しんでいるのだと感じた相手に対して、彼らを最高の形で救うための答えを今何としてでも探し出してあげたいと無条件に考え、最高の答えを模索しようとこころから努力するやさしい人々です。 それは、友に対しても、その他の味方に対しても、誰に対しても、敵に対してさえ区別無くやさしく振る舞う人々です。 彼は、誰とも敵対するということが無い人です。 彼は、人と争う心を(少なくとも心の根底において)微塵も持たない人です。 そのような人であるがゆえに、誰もが(自らの利害、損得を越えて)彼を「尊敬されるべき人」と呼ぶに至るのです。

[特徴]
尊敬されるべき人には、いろいろなタイプの人がいます。 勿論、健常者もいるでしょう。 しかしながら、そうで無い人もいることでしょう。 病気で健康を害している人。 事故などで怪我を負った人。 後天的に、あるいは生まれながらにして身体障害者である人。 やや知能が低い人。 その他、あらゆる見かけの人々が尊敬されるべき人であり得ます。 身体や頭脳の障害は、尊敬されるべき人を損なうものではありません。 なぜならば、尊敬されるべき人の特徴とは「心に障害が無いこと」であるからです。

[心に障害を為す要因]
意識(我:自我)の下にあって、心に障害を為す要因には大きく二つの種類があります。 一つは引っかかり(ケイ)を生じる「個人的無意識」すなわち原始経典に言う「名称:nama」にもとづく障害であり、もう一つは障害(ゲ)を生じる「集合的無意識」すなわち原始経典に言う「形態:rupa」にもとづく障害です。 尊敬されるべき人のこころである真実なる素直なこころ、すなわち智慧、すなわち法(ダルマ)は、それらのさらに奥底からそれらの心的障害を超えて突きあがってくるものです。 このようなことから、例えば般若心経では、尊敬されるべき人の境地(覚りの境地)を指して心無ケイゲの境地、すなわち心に引っかかり(ケイ:網頭らに圭)とさまたげ(ゲ:礙)が無い境地であると述べているのです。 つまり、尊敬されるべき人とは、名称と形態(nama-rupa)にもとづく心の障害が無い人、あるいはその障害が少ない人のことを指して言う言葉です。