【奇跡は?】

慈悲喜捨の何たるかは、覚りの境地に至った人には自明のことでありますが、未だその境地に至らない人にとっては見当もつかないことでありましょう。 ところで、そもそも”分かる”とはどういうことなのでしょうか。 以下では、その”分かる”ということについて説明します。


[ヘレン・ケラー]
先ず、家族でテレビ映画をみていたときのエピソードをご紹介したいと思います。 その映画は、ヘレン・ケラーの生涯を綴った伝記ドラマで、”奇跡の人”という題名でした。 映画では、全編にわたって彼女の前向きに生きる積極的な態度と明るい振る舞いがユーモラスに、そしてときにはしんみりと演じられていてとても感動的でした。 さて、映画が終わりキャストを紹介する字幕の文字(スタッフ・ロール)が画面に流れているときのことでした。

一緒にみていた当時7歳の娘が、ぽつりと言いました。

 ”奇跡はどこ?”

そうです。 娘には、「奇跡」という言葉の意味がまったく分かっていなかったのです。

 ”奇跡は映画の全部だよ”
 ”映画のどこをとっても奇跡の連続だったよ”

と言い聞かせようにも、それは全くらちの明かない空しい行為と思われました。 娘は、”奇跡”という名のまったく別のものを期待していたのは明らかであったからです。

慈悲喜捨の理解も、同様です。 人情や人情のエッセンスとして作り上げられた人為的感動にとらわれている人々(衆生)には、慈悲喜捨を理解することはできないでしょう。 人智にとらわれている人々(衆生)には、仏智(慈悲喜捨のこころ)を知ることは本来的に絶望的です。 そして、それは年端もいかない子供が”奇跡の人”の意味を理解できないことと同様に、無理からぬことなのです。

ここで大事なことは、覚りに至ることによって慈悲喜捨のこころが顕現する訳では無いということです。 むしろ、逆だと考えなければなりません。 つまり、慈悲喜捨が分かる人のみが覚りに至り、その時に自分自身が本来持っていた慈悲喜捨のこころそのものが仏のこころであることに思い至るからです。

”奇跡”の本当の意味を分かっている大人だけが、映画”奇跡の人”を全編にわたって感動とともに鑑賞できるように、慈悲喜捨の本当の意味を(そうとは知らずにですが)分かっている人だけが慈悲喜捨の境地に至るのです。 実際のところ、”奇跡”という字面にこだわってしまうと”奇跡”の本当の意味を見失ってしまうように、慈悲喜捨についても字面にこだわっている間はそれを真実に理解することはできないのです。 しかしながら、たとえ”奇跡”という言葉は知らなくても、ヘレン・ケラーを人間としてこころから尊敬できる人でありさえすれば、映画”奇跡の人”を正しく鑑賞することができるに違いありません。 そのことに、疑いは無いでしょう。 それと同様に、慈悲喜捨という言葉は知らなくても、苦しむ衆生とこの身が入れ替わっても良いと思うほど衆生と自らの立場を平等に観じ、かつ苦しむ衆生の根底にあるそのこころに尊敬の念を抱く人こそが、慈悲喜捨の本当の意味を知ることになるのは間違いないことなのです。 いかなる人を見ても非難せず、争わず、しかもその人を無視することなく正しく関わる人。 そのような人こそが、究極において慈悲喜捨を正しく理解する人になるであろうと言えるのです。