【理法】

理法のページは、現代に生きるブッダ(如来)である私(SRKWブッダ)が現代の人々に向けて現代における理法を列記し、現代に生きる人々(衆生)を覚りの境地にいざなうことを目的として設置したものです。 しかしながら、このページに掲載したそれぞれの理法項目を読み、勉強し、努力したとしても、ただそのことによって人々(衆生)が覚りの境地に至るわけではありません。 なぜならば、覚りの境地に至るプロセスの真実は、次のようなものであるからです。

● 人をして安穏の境地に至らせ、そこに安住せしめる不滅の法(ダルマ)の存在とその威力についての正しい信仰があり、その法を知って自らがブッダになろうと決心する正しい発心を起こした人が、徳行において精励し、聡明であって、真実の教えを聞こうと熱望し、善知識が発する法の句を聞いてそれが正法そのものであることに気づき理解し、諸仏の智慧を一つでも自らのものとするならば、ついに覚りの境地に至る。

すなわち、人が覚りの境地に至るために本当に必要なのは、正しい発心を起こすこと、善知識と巡り会うこと、(一大事因縁によって)正法を理解することの3つのことであり、知識や学問によるのではないからです。 したがって、覚り以前において現代のブッダ(如来)が語る(あるいは過去のブッダが語った)理法を多く少なく知っていて、それらを頭で理解していることは必ずしも必要なことではありません。 つまり、(少なくとも言葉で示されたところの)理法など知らなくても覚りの境地に至ることはできるのです。 そして、これら3つのことについては、サイトのメインページの左側に対応するボタン(素質、正法、善知識)を個別に用意しており、その中でそれぞれの真意を説明するとともに、過去の如来の言葉として釈尊の原始経典や大乗経典から、および慧能の六祖壇教から必要充分な引用をし尽くしています。 したがって、このサイトを閲覧する人が覚りの境地に至ろうと欲するときには、これら3つのボタン、すなわち素質、正法、善知識のボタンを適宜押してその内容を参照することで、文字として表し得る必要充分な情報を手に入れることができるでしょう。

しかしながら、実際には、発心、正法、善知識についてその内容を何となく理解することは出来ても、それらの本当のところを領解して、それを心から信じることはやはり難しいであろうと思います。 なぜならば、覚りの境地について微かなことさえも実感せず、あるいは覚りの境地について微かなことさえ思い至っていない人にとって、これら3つのことをそのままに信じ切ることは理性的にも心情的にもほとんど不可能であろうと思うからです。

そこで、私は、現代に生きるブッダ(覚者,如来)である私自身が現代の人々に向けて現代における理法を語ることで、それらを読んだ人が法(ダルマ)が本当に存在するということを信じ、また人は誰でも欲するならば覚りの境地に自ら至り得るということを信じられるようになって欲しいと考えるようになりました。 勿論、過去の如来が語った理法については、現存する原始経典や多くの大乗経典、あるいは主要な論典として膨大な記述が残っており、その中で理法は漢訳、和訳を含めて言葉としては正しく伝えられていると言ってよいでしょう。 したがって、人が単に(過去の仏が語った)理法を知りたいと思うのであるならば、それらの文献を精読することでそれを達成できることでしょう。 しかしながら、そうは言っても、やはりそれらの文献をそのまま現代の人が読んで理解するには難があろうと思えます。 その理由は、それらの経典や論典が書かれた時代と現代とでは、時代背景の違いなどが無視できないほど大きいからです。 そのために、そこで記述されている方便、すなわちいろいろな譬え話やモチーフ、テーマ、登場人物のキャラクターなどが現代人にはそぐわないものになっていると思えます。 このようなことを鑑みて、私は、ここに現代に生きるブッダ(如来)が現代の人々に向けて現代における理法を敢えて列記することに意義があると考え、それを実行することにしました。

ところで、先に述べたように、理法は法の句(智慧:仏智:無分別智)そのものではありません。 それゆえ、繰り返しになりますが、(如来が語る)理法自体は覚りの境地に至るために必ずしも必要なものではありません。 したがって、このページに列記した理法は、あくまでも皆さんが覚りの境地に至る正しい道を歩むための補助となるものに過ぎないのです。 とは言え、理法はそれを語ることに意味も意義のある方便であって、虚論,空論ではありませんが、これにとらわれてしまうと本当のこと(智慧:仏智:無分別智)が分からなくなってしまう危惧があります。 それは、例えば自転車に補助輪を装着したままでは、自転車を本当の意味で乗りこなすことはついに出来ないことに似ています。 なぜならば、補助とは、極めて初期の段階にのみ有効・有益なものであり、その行為に対する恐怖心が克服されたならば不要になったもの、邪魔以外の何ものでもないということを忘れてはならないのです。 そのような意味合いから、この理法のページに書かれたことがらを(直ちに)理解できないからといって、それを一々悲観するにはあたりません。 ただし、ここに書かれた理法に根本的な疑義を生じた場合には、そのことについて原始経典や大乗経典、および論典などを読み、その上で疑義事項についての観を行って、それを解決すべきであるとは言えるのです。

人がそのようにしてついに覚りの境地に至ったとき、その人はここに列記した理法のすべてについて心から納得が行き、合点するに至ることは間違いありません。 言ってみれば、理法のもう一つの役割とは、人が覚りの境地に正しく至ったことを本人が自己確認するためのチェックリストであるのだと言ってよいでしょう。


[追伸]
実は、覚りのチェックリストにあたるものも、いくつかの代表的経典の記述として残され、伝えられています。 それらの一部を、引用してここに列記しておきます。

● まさに住するところ無くして、しかも其の心を生ずべし の其の心であること
● 覚れる人は争うことが無い
● ニルヴァーナの境地とは、貪瞋痴の滅した境地である
● 覚りとは、三毒(貪瞋痴)が三学(戒定慧)に変わった境地である
● 功徳とは、見性することに巧みであり、素直なこころが徳そのものであることを云う
● 智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない
● 識別作用が止滅するのである
● いろいろのことについて明らかな智慧を得る
● すべての苦しみから脱れる