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* YAHOO ジオログへの記事掲載(過去ログ)
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ジオログの試験運用開始

ジオログの試験運用を開始しました。

このログは、初期の段階では閲覧の方々コメントを書き込めるように設定しておきますが、のちにはサイトの執筆者の記事だけを掲載する形式に変更するかも知れません。 その際、一旦すべてのログを初期化することになると思います。 もしコメントの書き込みを行う方は、その点をご了解の上、書き込みを行って下さい。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年10月31日(日) 20:46 [ コメント : 1]




ジオログページ運用の方針について

このジオログページは、覚りの境地に至ることを目指しているすべての人々のなかで、私(SRKWブッダ)と縁があると考えられる特定の人々を対象として、その特定の人々だけに公開される、ある種の質疑応答の場として運用することを考えています。

すなわち、このジオログページにアクセスする方法を私が知らせたローカルな人々のみが公開形式で、理法について特にデリケートな案件についての質疑応答を行うページとして機能させてはどうかということです。

ただし、当面は試験運用を行うこととし、それゆえに将来は運用の内容・方針について変更すること、あるいは活動そのものを停止することもあり得ます。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年10月31日(日) 21:03 [ コメント : 0]




これまでのこと。 今後のこと。

私が、覚りの境地に至ってから、やがて2年10ヶ月になろうとしている。 この間、私は常に人々(衆生)が如何にして覚りの境地に至るかについてだけ考えて来たし、私に縁があると思われるさまざまな人々に対して、あからさまな影響を与えることなく覚りの境地に至ることについてのよいヒントを出せないものかと模索して来た。 そして、それは、狙い通りの、一定の結果を出していると確信している。

と言うのは、極めて少数ではあるけれども、覚りの境地に至ることについての正しい道を確かに歩んでいる人、あるいは歩みつつある人が見られるからである。 かれらは、決して特別な素質がある訳ではないが、いやむしろ、そうでは無い故に、結果としてそれを達成しているのだと言えよう。

その一方で、豊かな才能あり、(いわゆる世間的な)素質あり、努力家で、勤勉で、見かけの優しさを持っている人々が、覚りの境地に至ることを目指しつつも、自ら抱いた偏見に翻弄されて、覚りの境地に至る筈の道から大きく外れているのも見る。 かれらは、覚りの境地に至ることについての、最も大事なものを現時点では実質的に欠き、あるいはそれを見失い、はたまた敢えてそれから目をそらしているのである。

しかしながら、私から見れば、すでに正しい道を歩んでいる人も、歩みつつある人も、そしてそうでない人も、皆その本性においては等しく、異なることがない仏性を有していることが分かるのであり、それゆえに、私はこれまでのように、これからもすべての人々に対して、区別することのない理法を語るつもりでいる。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月1日(月) 22:46 [ コメント : 0]




すべての始まり

覚りの境地に至ったとき、その道筋のすべての始まりは『発心』であったと自ら知ることになります。 そして、それと同時に、発心は因縁にのみもとづいているのだと理解されるのです。

ところで、私は、発心以前においても、仏教の覚りを求めていたし、それを実現したいという気持ちは真摯なものであったのは間違いないことです。 しかしながら、発心以前のそれは、すべてが決定的な勘違いの上に構築された知識や見識に過ぎず、そのような追求によっては覚りの境地に至ることは無かったであろうと今は分かります。

また、発心は、自分自身でそれを起こしたことに気づくことは無く、すべては覚りの境地に至った後で、あれが発心であったと気づくのです。 それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、自分が発心しているとか、していないとかを気にせずに、自分自身を信じて、覚りの境地に至ることを真摯に目指すべきだと言えます。 勿論、自分自身を信じたとしても、いわゆる素質に劣る人は今生において正しい道をついに見いだすことができず、自ら生じた偏見に囚われて、覚りの境地に至ることは無いでしょう。 それは、あってはならないことですが、現実に起こりえることであり、またそのような人々の数も決して少なくはないであろうことは想像にかたくないことです。

しかしながら、たとえそれがそうであったとしても、私(如来)が為すべき事は、すべての人々(衆生)が皆覚りの境地に等しく至るのだと信じて理法を語ることなのです。

ある人が正しい発心を起こすか否か? それは、如来との出会いではなく、ひとえにその人が、その人にとっての善知識と出会えるかどうかにかかっています。 このことについて、私が語りえることは、発心が善知識によってもたらされるのだという真実を、ただ述べることなのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月2日(火) 02:04 [ コメント : 0]





人は信仰を起こすべきである

私は、覚りの境地に至る以前において、いわゆる仏教の特定の宗派に属し、信仰生活を送っていた訳ではありません。 また、私は、釈尊に対する特別な信仰があった訳でもありません。

私が、仏教に興味を持ってから実際に覚りの境地に至るまでの20年間余りにおいては、あくまでも学問的なアプローチを基調としていたのであり、しかもそれは継続的なものでは無く散発的なものであり、ときには仏教ならざる瞑想などに興味を抱き、またあるときには真実の公案とは言えない世間的に知られただけの禅の公案に対してまるでパズルを解くように取り組んでいたのでした。

しかしながら、私は、覚りの境地に至る数ヶ月前に、覚りの境地に至ることについての信仰を起こしたのは間違いないことであり、それは自分自身にとって確かな気づきを生じるものではありませんでしたが、(特定の時期では無い)ある時期を境に、心の深奥において仏教への信仰についての確固たる何かが確立されたのだと感じていたのは事実です。

具体的に言えば、次のようなことを確かに感じていたのです。

○ 覚りの境地に至るということは、絵空事ではなく、実際にある事実に違いない(ただし、この時点ではそれが一体どのようなものであるかについてはまったく認知も想像もできないことでありました)

○ 少なくとも、中国の禅師・六祖慧能は、覚った人であったに違いない

そして私は、このような自分でも気づかぬうちの信仰生活において(第一の)善知識と出会って発心を起こし、さらに覚りの境地に至ることについての真実の熱望を確立し、縁有って(第二の、真実の)善知識に出会って心解脱を生じ、その後にときを経ずして一大事因縁を生じて覚りの境地に至ったのです。(慧解脱)

それゆえに、私は、覚りの境地に至ることを目指す人に対して、「一切世間に汚されることなく、しかし世間を無視することなくして、自らにのみ依拠した正しい信仰を起こすべきである」と言いたいです。 なぜならば、このことは私自身の経験にもとづいていることであり、そしてこのことは私だけに起こったことではなく、すべての人々に等しく起こる筈のことであると信じられるからです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月2日(火) 14:35 [ コメント : 0]




因縁によっている

私(如来)が知ったこの道。 すなわち、覚りの境地に至る道において、その道を正しく進むことが、もし知識や見識や努力や素質にもとづいて起こり、またそれらにもとづいて起こるのだという確かな気づきや認識が道すがらにおいてその人に生じるのであるならば、私は、それがそうであると言うことでしょう。

しかしながら、私が知ったこの道。 すなわち、覚りの境地に至る道におけるすべてのことは、(人智を超えた)因縁にもとづいて起こることであり、当然のことながらそれが知識や見識や努力や素質にもとづいて起こり、またそれがそれらにもとづいて起こるのだという如何なる気づきや認識も、その道すがらにおいてその人に生じることはあり得ないのです。

したがって、私は、覚りの境地に至ることを目指す人に対して、勉強せよとか、経験を積んで見識を深めよとか、何かよさそうなことに依拠し、あるいは何かをお手本にして努力せよとか、はたまた自らに誓戒を立ててそれを護れとか、さらには何ら努力すること無く自然体で果報は寝て待てとか言うことはできないのです。

そして、私がそのようなことを言わないのは、それがそうでは無いからということだけでなく、もしそのようなことを言うならば、人をして覚りに向かわしめんとけしかけてしまうおそれがあるからであり、そのようにしてけしかけられた人が覚りの境地に至ることはあり得ないことを知っているからなのです。

すでに覚りの境地に至った今、私が確信を以て言えることは、「もし人が正しい熱望を以て覚りの境地に至ることを目指すならば、必ずや覚りの境地に至る基本的な因縁を生じ、縁によって発心を起こし、自ら精進する心を起こしてそれを実行するに至り、知らないうちに徳を積み、ついには一大事因縁を生じて覚りの境地に至るであろう」ということだけなのです。

それゆえに、人はこの理を知って自ら覚りの境地に向かう正しい熱望を起こすべきであり、しかもその熱望は、あくまでも自らにのみ依拠して生じたものでなければならないことを理解すべきです。 そして、覚りの境地は確かにあり、それが自分自身に体現されることを信じる人は、先ず自分自身がやさしい人なのであるということを信じなければならないのです。 それが、正しい因縁を生じる唯一無二の方法なのであると知るべきです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月2日(火) 23:04 [ コメント : 2]




人が目指すべき境地

覚りの境地に至ることを目指す人が目指すべきもの。 それは、貪嗔痴を滅した不滅の安穏の境地(ニルヴァーナ)です。

しかしながら、未だ覚りの境地に至っていない人が、予めニルヴァーナを知ることは不可能であり、それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は他の何かの境地を仮に目指してニルヴァーナに近づくのだと言えます。

私の場合、それは釈尊がさまざまな経典に明かしたその境地では無く、世間において広く知られ、かれがそうだと言い伝えられている禅師達の境地でありました。 そして、今振り返れば、かれらのいう悟りの境地が真実のところどんな境地であるのかということについての知的探求が、私を仏教に勤しむことに駆り立てた原動力であったのだと思えます。

ところが、実際に覚りの境地に至った今、かつて私が(仮に)目指した悟りの境地が、真実の覚りの境地(ニルヴァーナ)では無く、そのほとんどが単なる哲学的見解であり、あるいはある種の哲学的見解の帰結に過ぎず、かれらが実は覚っていなかったのだということを私は知りました。 その一方で、釈尊がさまざまな経典において語り、明らかにした境地こそが、まごうことなき覚りの境地(ニルヴァーナ)であることを知るに至ったのです。

では、私が最初から禅師達の言葉ではなく、釈尊の言葉に耳を傾け、釈尊の説くところのものを素直に履修していたとしたら、もっと速やかに覚りの境地に至ったであろうかと言えば、私にはそうは思えません。

なぜならば、このことはすべからく自らの因縁にもとづいて起こることであり、世に存する如何なるものにも依拠せず、(正しく)自らに依拠することによってのみ見いだされる道であり、生まれてこの方得たところの如何なるものにも依らない、無住なるこころを知ることによってのみ(期せずして)到達する境地であり、それは決して如来の言葉を聞くことによってもたらされるのでは無く、実際には人々(衆生)に紛れて世に現れる善知識が発する法の句(善知識)によってもたらされるのであるからです。 つまり、人が覚りの境地に至ることを目指すとき、大事なことはその目指した境地が何であるかでは無く、如何なる心構えを以てそれを目指すかということであるからです。

その心構えが正しければまごうことなき覚りの境地に至り、正しからざれば世間に迷い、輪廻を繰り返すことになることでしょう。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月4日(木) 09:50 [ コメント : 0]




修行と称するものからの出離

世間のある人々は、修行と称するものによって覚りの境地に至るのだと主張し、それによって自らがいつかは覚りに至ると信じているように思えます。

しかしながら、私は、世間においてさまざまに主張される、いわゆる修行によって覚りの境地に至ったのでは無く、次のようにして覚りの境地に至りました。

● 法(ダルマ)の存在とその威力についての正しい信仰を、発心によって起こし、平等観の最中において自らがブッダの立場に立つこと決心し、それを少しなりとも実現すべく精励することを決意し、そのためにこそ真実の教えを聞こうと熱望し、ついに因縁によって善知識が発する法の句を聞いてそれが正法そのものであることに気づき、こころに理解し、諸仏の智慧をたった一つだけ確かに自らのものにしたとき、まごうことなき覚りの境地に至った自分を発見した。

そのとき、私は、それ以前に有益だと思い込んでいた、世間において主張され広く知られている修行と称するものが、覚りの境地に至ることとはその本質において関係のないものであることを知りました。 それどころか、もし人が、それらにこだわり、執著するならば、その人がそのままの状態において覚りの境地に至ることはあり得ないのだと確かに理解しました。

具体的には、瞑想によって何かを体現することも、じっと動かずに努力することも、何かに集中することも、見識を深めることも、何某かの感性を磨くことも、わき起こるさまざまな思いつきを偏重し履修することも、人情に浴して世人と親しく交流することも、聞きつけた誓戒を護ることも、特定の何かや誰かに感謝の念を抱くことも、世間において広く知られた何かに感動して涙することも、人生の悲哀を知って呻吟し、あるいは酒や薬などの力を借りてそれを忘れようとすることも、ひとときの快楽にひたることも、肉体を敢えて苦しめ、あるいは精神を苦況に追い込むことも、敢えて世間と隔絶することも、そしてこれらのことを初めとする修行と称するあらゆることが、人をして覚りの境地に至らしめるものでは無いことを私は知ったのです。

今、私(如来)が覚りの境地に至ることを目指す人に言えることは、上記のような世間において広く知られ、有益だと信じられていることの楽味(味著)と過患とを知り、それらへのこだわりと執著を捨て去って、出離し、ついには離貪して、速やかに覚りの境地に至るべきであるということなのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月4日(木) 10:56 [ コメント : 0]




けしかけることなく、けしかけられることなく道を歩むべき

私は、自らが確かに歩んだと今は理解できる覚りの境地に至る道筋において、たとえ僅かでも自分自身をけしかけることは無かったし、また他の人の言葉を聞いて、あるいは他の人が書いた文章を読み知って、それらにけしかけられるということもありませんでした。 そして、それは(第一の善知識に出会って起こした)発心の以前もそうであったし、発心の以後もそうでありました。(現在もそうです)

この経験を踏まえて言えば、人が覚りの境地に至るということにおいて、自分自身をけしかけたり、あるいは何かにけしかけられたりする必要は無く、むしろ自分自身を含めて如何なる何ものにもけしかけられない心を確立した人こそが、いわば周到に覚りの境地に至るのであろうと私には思えます。

なぜならば、覚りの境地に至った人は、世間の何ものにも影響を受けず、同時に何かに影響を与えることもなく世の中を遍歴するのであり、覚りの境地に至る以前においてもまさにそのような人こそが、つまりけしかけるとか、けしかけられるとかとは本質的に無縁の人こそが、まさにそのような正しい心構えを持つ人であることを一つの因縁として、人は覚りの境地に至るのであろうと考えられるからです。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、世間において見聞きするあらゆることにけしかけられることなく、同時に自分の心にわき起こる覚りの境地に至ることを願い、けしかける心を正しくおさめて、覚りの境地に至ることを目指す正しい熱望と精励する心を身につけて、速やかに覚りの境地に至るべきであると言えるのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月4日(木) 20:31 [ コメント : 0]




誰かにあこがれたことはない

私は、少なくとも覚りの境地に至る以前において、釈尊を初めとする覚者や、聖人と呼ばれる人などの特定の誰かにあこがれて、その人のようになりたいと思ったことは一度もありませんでした。 なぜならば、私は、彼らは確かに尊敬すべき人々だと思いつつも、実際には自分が彼らと同じようになったからといって、そのことによって自分が幸せになれるとは思えなかったからです。 したがって、それまでの私は、ただ自分自身の感性や哲学や経験などをより確かなものと信じて、日々を過ごしていました。

しかしながら、私は、基本的公案を解くという平等観と等価な行為を為す過程において、過去に見聞きしたある事件を思い出し、そのときにある言葉を発したある人のように振る舞うことができる人間になりたいと心から思ったのです。 今にして思えば、その人はまさしく善知識であり、観において、私がもし彼のように振る舞うことができたならば、基本的公案を完全に解決することができるであろうと思えたのは当然のことでしょう。 ところで、そのときの私は、自分が生きてきたこれまでのあらゆることについて、根本的な勘違いをしているに違いないと(気づきでは無くして)気づきました。 つまり、私は、観において、自ら見いだし想起したその苦境を解決するための方法を、自分自身は何一つ持っていないことに気づかされたからです。 すなわち、私がこれまでの人生において学び、考え、経験し、得て、身につけたと思っていたあらゆる知識や見識を総動員しても、観において想起された(架空設定の)苦境を解決することにはまったく役に立たず、しかもそれを如何に発展させたとしてもその解決をはかることは本質的に出来ないであろうと理解され、それを解決する方法は、(善知識であるところの)かれが発したした言葉の根底にある「それ」を身につける以外にはないと確信するに至ったからです。 そして、その直後に、一大事因縁は起こったのです。

さて、すでに覚りの境地に至った現在においても、特定の誰かにあこがれて、その人のようになりたいと思うことはありませんが、覚り以前と明らかに違うことは、「誰かに尊敬され、あこがれられる自分でありたい」と思うことがまったく無くなっている自分自身を、常に発見しているということなのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月5日(金) 15:26 [ コメント : 0]




仏教の学びについて

私は、覚りの境地に至る以前において、仏教についての種々雑多な学びを闇雲に行ってきたのだというべきさまざまな経緯がありますが、すでに覚りの境地に至った今、少なくとも言えることは、それぞれの経緯においてつねに共通していることがあったということです。 それは、

『私は仏教の学びにおいて予め想定され得るような特別な何かを期待したことは一度もありませんでしたが、その一方で、多岐にわたる仏教の学びにおいて失望させられたことも一切無かった』

ということです。

つまり、私は、仏教の学びに関して最初からその意義と意味と真実性と、そしてその学びの結果として自らが確固たる何かに到達するであろうということについて、(説明不可能な)ある種の確信があったと、決して手前味噌ということでは無く、そのように振り返って言えるのです。

したがって、私は、仏教の学びにおいて、わずかなりとも苦痛を感じたことは無かったし、その過程のどの局面においても、自己嫌悪に陥ったことも無く、人間不信に陥ったこともありませんでした。 それゆえに、私は、仏教を自ら学ぶことについて、結果的に、一抹の疑惑も、疑念も、不安も、不満も、焦燥も、怠惰も、如何なる欲望も、特別な期待も、如何なる恐怖も起こることはありませんでした。

それゆえに、今、私が言えることは、仏教の学びということについては、つねに楽しくそれを為すべきであるということであり、自己嫌悪と人間不信を払拭すべきであるということであり、そして覚りの境地に至ることを目指す人が、もしその学びにおいて、今現在何らかの苦痛や、疑惑や、疑念や、不安や、不満や、焦燥や、怠惰や、何らかの欲望や、特別な期待や、言いしれぬ恐怖などを感じているのであるならば、先ずそのことについての根本的な勘違いについてこころに問うて参究し、それらの障げに関連するあらゆるこだわりを捨て去って、こだわりを捨て去るのだというこだわりをも捨て去って、仏教の学びについての正しい心構えを確立すべきであるということなのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月7日(日) 02:51 [ コメント : 0]




基本的公案に取り組むこと

私が、覚りの境地に至る前の十年間ほどにおいて、世に広く知られたさまざまな禅の公案を聞き知ってそれを解こうと思ったのは、知的好奇心に駆られてのことでした。 勿論、公案を解くことが覚りの境地に至ることを目指して行われるものであることは、知識として知ってはいましたが、半信半疑でありました。 そして、その気持ちは(久松真一氏の)基本的公案に臨んだときも同様であり、確かに何らかの悟りの境地に至った人であろうと信じられた久松氏本人が、基本的公案を指して「これは悟りに至る禅の公案の最後の一関である」と主張していたことを頭では理解していても、それをそのまま信じることはできず、それによって本当に覚りの境地に至るとはとても思えませんでした。

なぜならば、基本的公案以前に取り組んで、すでに解いていた幾つかの公案では、自分が悟ったのだという確かな実感がわき起こらなかったからであり、その経験から、基本的公案もそれらと大して違わないものであろうと考えていたからです。 ただ、久松氏の主張が正しいものであるかどうかについて決着をつけるためにも、また公案群への取り組みの集大成としても、この公案に真剣に取り組んでみようと思い立ったのは事実です。

そのようにして、最終的に基本的公案が解けたとき、少なくともその時点では、私はやはりこれも他の公案と大して違わないある種の哲学的見解の帰結に過ぎないものだと思いました。 と言うのは、基本的公案を解いても悟ったという実感を何ら生じなかったからです。

しかしながら、私は、基本的公案を解いた次の日に、基本的公案が解けた瞬間に感じていた感動が、生まれて初めて感じた「特殊な感動」と名づけるべきものであり、その特殊な感動のルーツが一切世間を出た無住なるものであることに(気づきでは無くして)気づいて、ついに真実の、虚妄ならざる覚りの境地に至ることを得たのです。

そして、それと同時に、基本的公案は確かに覚りの境地に至ることに役立つ本物の公案であり、観と等価なものであり、これを解けば、次いで起こる筈の一大事因縁によって(真実の、第一種の)覚りの境地に至るか、あるいは少なくとも第二種の覚り(不還)に至ると期待され得るものであることを確かに理解しました。

それゆえに、私は、覚りの境地に至ることを目指す人が観の具体的な一方法として基本的公案に取り組むことを大いに勧めているのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月9日(火) 14:47 [ コメント : 0]




公案の功罪

すでに覚りの境地に至った今、私が公案について思うことは、それはまことに不可思議なものであり、同時にその功罪を考えずにはいられないということです。

と言うのは、世に広く知られた数多の公案は、本当の意味では覚りの境地に至ることに役立たないものであることを、私はすでに知っているからです。

なぜならば、世に知られたすべての公案は、覚りの境地に至っていない人が、自らは覚りの境地に至ったのだと誤って理解し、そうだと信じて、その覚りでは無いいわば思い込みの境地に至る道を、弟子達に示そうと意図して作り出されたものに過ぎず、作為されざるもの、すなわち仏智を導き出せるものでは無いからです。

しかしながら、その一方で、少なくとも久松真一氏が考案した基本的公案(『どうしてもいけなければどうするか』)は、本人が真実には覚りの境地に至っていないにもかかわらず、覚りの境地に至ることに役立つ、本当の公案だと言えるのであり、人がこの基本的公案によって覚りの境地に至ると期待され得るという意味で本質的に不可思議なものであり、また、覚っていない人が創出した公案によって他の人が覚りの境地に至り得るという皮肉な結果を生じているという意味でも不可思議なものだと言えるのです。

なお、公案の功罪とは、それによって直接に辿り着くのが人智(衆生智)に過ぎず、それは真実の覚りの境地では無いという罪があるからであり、その一方で、そのようにして一旦辿り着いた人智の境地が、それは真実の覚りの境地では無いのだとこころに知る明智の人は、さらに精進し、ついに公案を超えて公案を解き、人智を超えて仏智を得て、自らの身に虚妄ならざる覚りの境地を体現するという功(功徳)が認められるからです。

その意味で、公案はまさに妙薬の如きものであり、適切な量を用いれば最高の薬となるけれども、もし量を誤れば取り返しのつかない結果を生じる毒ともなるのです。

それゆえに、公案への取り組みによって覚りの境地に至ることを目指す人は、その功罪を知って、闇雲にでは無くよく気をつけて公案に取り組み、公案によって得、生じたあらゆるものについてその虚実を必ずこころに問うべきであり、もし何某かの境界を得ても慢心に陥ることなく、疑惑を離れ、感動を超えた特殊な感動を自らの身に生じて、ついに正法(ダルマ)にもとづいて起こる一大事因縁によって真実の覚りの境地に至るべきだと言えるのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月9日(火) 19:05 [ コメント : 0]





ニルヴァーナに至るまでの道のり

私は、青年時代から覚りの境地に至るその瞬間まで、自分の心を制することができるようになることや動じない心を確立することを目指して、独学で心理学の勉強をしたり、哲学の研鑚に励んだり、瞑想のまねごとをしたりしてきました。 しかしながら、それらについての努力の成否や見解の正否は否定的に、しかも超越的に決着することになりました。

なぜならば、覚りの境地に至ったとき、それらによっては目的を達成することができないことを自らの経験として確かに知ったからです。 と言うのは、人が自らの心を制することができるようになることや、動じない心を確立すること、そしてそれらのことを含み、しかもそれらを遙かに超越した最高の境地、すなわち不滅の安穏の境地(ニルヴァーナ)に至る道は、心理学や哲学や瞑想のみならず世に広く知られた学問や宗教的信仰や誓戒や苦行や、その他の超常的現象およびそれらについての形而上学的識見などとはまったく無関係なことであり、ニルヴァーナは努力にもとづいて起こることでは無く、また如何なる見解によってもそこに至る道を歩んでいることを証することはできないものであることを知ったからです。 敢えて言えば、すべての人が求めるべき道、すべての人が至るべきニルヴァーナは、因縁によってもたらされるものであるということが世の真実であると(知る人には)知られるからです。

ところで、私自身の経験を踏まえ、敢えて言明するならば、人がニルヴァーナを目指して行うさまざまなことは決して無駄とは言いませんが、もし人がそれらにこだわり、正法の存在を信じることができず、正法のこの世における顕れである法の句を聞かず、またそれをこころに理解しないのであるならば、その人がそのままにおいて覚りの境地に至ることはあり得ないと言えるのです。 けだし、すべてはその人の心構えにかかっていると言わざるを得ないのであり、それゆえに覚りの境地に至ることを目指す人は、それがそうなのだと理解して、疑惑を離れ、自らのこころに依拠し、自ら為した行為の動機とその顛末をこころに問うて、その虚実を知って、正しい道を自らのこころに見いだすべきであると言えるのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月10日(水) 18:54 [ コメント : 0]




覚りは前触れなく突然にやってくるもの

覚りは、前触れもなく突然にやってくるものです。 そこに至る前には、如何なる予感も無いし、それどころか、覚りの瞬間が確かに訪れているにもかかわらず、その瞬間においては自分が覚りの境地に至ったのだということを実感することさえありません。 有り体に言えば、覚りの境地に至ったことはそれからしばらくして如実に知ることになるのであり、そこには数時間の時間差が認められます。

したがって、覚りの境地に至ることを目指す人は、自分が覚りの境地に近づいていないのではないか?正しい道を踏み外しているのではないか?などと危惧することなく、覚りの境地に向かって歩む道を自らのこころに問うてその正しさを知り、信仰を起こし、段階の説や何某かの境界への順次の到達などの(偏見の)説に耳を汚されることなく、慢心と疑惑とを離れ、世間において見聞きするあらゆるものに対して目を眩ませる心の濁りを捨て去ることを願い、よく気をつけて、真理についての思索を超えた思索を行い、人々および自分自身に対する一つ処の信を確立し、(諸仏の)教えを聞こうと熱望して、縁によってまごうことなき法の句を確かに聞き及んで、それがそうなのだとこころに理解し、懺悔して清浄となり、決心して、一大事を得、速やかに虚妄ならざる覚りの境地に至るべきだと言えるのです。

なお、敢えて言明すれば、覚りの境地に至ることを目指す人がその実現のためにつねに行うべきことは次のことです。

● 愛欲と憂いの両者を捨て去ること
○ 沈んだ気持ちを除くこと
○ 悔恨を止めること
○ 平静な心がまえをもつこと
○ 念いを清らかしめること

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月12日(金) 19:56 [ コメント : 0]




覚者の楽しみ

たとえば子供が大人になったとき、子供じみた楽しみは無くなるとしても、すでに大人になったその子には大人の楽しみが確かに現れます。 それと同様に、人が覚りの境地に至ったとき、人としての世俗的な楽しみはそれをそのままに楽しむところのものでは無くなりますが、すでに覚者となった覚者には覚者としての楽しみが確かに生じます。 そして、覚者の楽しみとは次のようなものです。

・自ら起こした誓願が、諸仏のそれと等しく異なることがないことを知り、同時にそれが人々(衆生)の究極の望みを確かに叶えるものであることを如実に知っている楽しみ
・何を行為してもすべからく、後悔の念を生じるようなことが起きない楽しみ
・貪嗔痴を離れ、それらが戒定慧に転じていることを知る楽しみ
・あらゆる煩いが消滅している楽しみ
・世界中に嫌いな人がただの一人もいない楽しみ
・何にせよ、畏れることもたじろぐことも無いという楽しみ
・束縛を離れ、従属することが無いという楽しみ

また、覚りの境地に至った覚者は、真実の楽しみを知るゆえに、世人が楽しむべきことを楽しまず、楽しみなどではない苦を(そうとは知らずに誤って)楽しみとしていることを知っています。 すなわち、世人は、厭うべきものを好ましく思い、避けるべきことに執着し、畏れるべきことを嬉々として迎え入れ、遠ざけるべき対象に敢えて近づいて行くのであり、その結果、世人は(そのままにおいて)苦から脱することが出来ずにいるのだと覚者は知っているからです。

それゆえに、苦の真実と楽しみの真実とを(如来あるいは善知識から直接に、あるいは間接に)聞き及び、それがそうに違いないとこころに理解する明智の人は、自らが一切世間に触れて感受するあらゆることについてそれを自らのこころに問うてその虚実を見極め、自ら再確認し、それがそうだと真実に理解して、しかしながら身近に交流する世人の楽しみを否定することなく、またその行為を非難することなく、無量の慈しみのこころを以て、また(完成された)平等心を以て、真実の楽しみと真実の苦と苦の原因と、苦を滅する道について深く参究すべきだと言えるのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月12日(金) 22:30 [ コメント : 0]




覚者が語る真実

覚者は、人々(衆生)に向かってあらゆる方便の説を述べて、人々が覚りの境地に近づくことをつねに応援しています。 しかしながら、覚者が、覚りの境地に至ることについての真実を人々に語るとき、それは極限られたものにならざるを得ないのです。

○ 覚りの境地は、虚妄ならざるものである。
○ 人は、もしそれをこころから望むならば、誰でも覚りの境地に達し得る筈のものであり、そのことについて特別な素質は認められない。
○ 自らにのみ依拠し、しかも自らを超えて現れる「それ」を、自ら見いだすべきである。
○ すべては、因縁によっている。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、上記以外の(方便の説を含めた)諸説を参考にしつつも、最終的にはそれら諸説へのこだわりを正しく捨て去って、ただ覚者が語る真実(正法と名づく)にもとづいて、まごうことなき覚りの境地に至るべきであると言えるのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月15日(月) 11:04 [ コメント : 0]




熱望について

私は、自分のサイトの『理法』のページや、あるいは他の人が運営する掲示板などにおいて、「熱望すべきである」ということをしばしば書き込みます。 勿論、覚りの境地に至ることを目指す人は、それを熱望すべきであり、それゆえに私はこのように書き込むのです。

しかしながら、この「熱望」ということは、決して意識的に行われるものではありません。 すなわち、「熱望」は、自分でも意識的には気づいていない自分自身の本当の望みなのであり、それは欲望でも欲求でもないものであると(知る人には、そしてその人自身においてそれは後づけで)知られるからです。

つまり、熱望が叶ったとき、人は言ってみれば「我が意を得たり」と後づけで思うのであり、事前に思い描き狙っていたことが起きたのだとか、意識的には思うこと無きにおいてしかし待ってましたというばかりにそれが起きたのだなどとは思わないものです。

したがって、私が「熱望せよ」と言うとき、それはこのような意味においてであり、それは決して意識的にすることではなく、かといって無意識下の熱望として予めしこんだものであってはならず、また熱望ということを捨て去ってもいけないのです。 そのように、いわば「どうしてもいけなければどうするか」としての望みとして熱望すべきであり、それゆえにその正しい熱望は、その終着点において、「諸仏の誓願」というあり得べき形で結実するのだと言ってよいのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月21日(日) 23:22 [ コメント : 0]





法の句は如来とは無関係に世に出現する

如来は、世間において稀有に現れる法(ダルマ)を知って、理解し、因縁によって覚りの境地に至った人のことです。 そして、如来は、自らが修した道を人々(衆生)に示し、人をして自分と等しく異なることがないようにしたいという誓願を自らの生存の基本的要因(いわば魂)としてこころに明確に保っている存在です。 それゆえに、諸々の如来は、自ら知った法(ダルマ)をあたかも人々(衆生)に教示するかの如くに振る舞うのであり、その様を見た人は、如来がそれを人々(衆生)に(直接に)継承させようとしているように見えるかも知れません。

しかしながら、実際には、法(ダルマ)は世間における継承や伝承などとは無関係に世に現れ出るものなのであり、したがって今現在、如来がこの世にいようがいまいが、そのことは法(ダルマ)の出現に何ら関わりはないのです。 なぜならば、人をして覚りの境地に至らしめる法の句は、一見して衆生に見える諸々の尊敬さるべき人がときとして世に発する善知識として人々(衆生)に示され、認知されるのであり、そのことについてのあらゆる因縁は、それを聞き及んだ人自身に関わることであり、如来の存在とは無関係であると言えるからです。(ただし、仏縁の人々を除く)

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、目の前に存在する如来、あるいは今現在この世に確かに存在していると確信される如来の存在を見聞きしても、それに心を奪われることなく、如来との縁を自ら思念することなく、しかし如来の振る舞いを見て、あるいはその言葉を聞いて自らの安穏(ニルヴァーナ)を学び、法(ダルマ)の存在とその確かな威力についての(正しい)信仰を起こし、特定の何かを念じることなく、4種の正しからざる想いに心をとらわれることなく、自ら為した行為から眼を背けることなく、その虚実を知り、人々のこころに例外なく宿る人としてのあり得べく本性を、まさに住するところ無きこころを生じて見極めて、迷い無く、速やかに覚りの境地に至るべきであると言えるのです。

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作成者 srkw_buddha(SRKWブッダ) : 2004年11月22日(月) 23:22 [ コメント : 0]


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ブログの試験運用を終了する。  2004年11月23日
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